2006年07月16日
(完結編)パートナーを変えるとき
今まで、お付き合いくださり、ありがとうございました。今日で、やっと完結します。
<前回までのあらすじ>
11勝2敗で、前半戦を終えたボニーと私。後半戦を10勝3敗以上、つまり、通算21勝5敗以上で終えれば、私たちはAプレーヤーになれます。しかし私は足を負傷し、3月に帰国も決まってしまいました。
1月に入り、後半戦13試合が始まりました。足を痛めた私は、病院にいって飲み薬をもらい、リーグが休みの間(クリスマス、ニューイヤー休暇)はテニスができていませんでした。
案の定、後半戦1試合目は私の動きが悪くて、前半戦で勝った相手にもかかわらず負けてしまいました。その後は、なんとか持ち直し、連勝していきました。
しかし、また2月の始めの試合中に、同じふくらはぎを肉離れしてしまいました。その試合も、なんとかボニーに走り回ってもらって勝つことができました。ボニーは無理をして欲しくないと心配して言ってくれましたが、私はなんとか帰国するまでにAに2人でいきたいと思っていました。そのころはもう、火曜日のリーグで試合を何とか続けようと必死でした。ボニーも私に負担をかけないようにいつも以上に積極的に動き決めてくれました。彼女の方がしんどかったと思います。
足を痛めた翌週は、私は、さすがに試合には出れず、ボニーはサブとLine2(No2)でプレーしました。この時のボニーの勝ち数はLine2なのでカウントされません。
その次の試合から、私は復帰しました。(お医者様でもらった薬が、結構効きました。)しかし、3月初めにまた1回負けてしまいました。相手は負けても納得できるリーグ屈指の強いペアでした。
3月始めの段階で負け数4、カウントされない勝ち数1でした。通算5回より多く負けるとAへの夢は消えてしまいますから、これ以上負けることができませんでした。残り全試合勝たなければなりません。
私たち家族が日本に帰国する日が3月26日で、ボニーと私が最後にプレーするリーグの最後の日が3月21日でした。
足を冷やさないようにロングパンツをはきサポーターをして、試合前に飲み薬を飲み、試合に毎週出続けました。
おかしかったのは、なぜか、他のチームメイトもみんな、ロンパンでプレーしていました。きっと、みんな負傷することを恐れたのだと思います。
そして、なんとか3月21日に”ギリギリ”21回目の勝利をあげることができました。
晴れて、ボニーと私はAプレーヤーになる資格を得ました。Aリーグは、個人戦で毎回別の人とプレーをし個人の勝率でランキングがついていきます。現在、ボニーはAで中々の成績で頑張っています。
私は、帰国しましたが、あれほど、必死にテニスをやったことはありませんでした。燃え尽きたという感じでした。
チームのみんなも私たちがAに行くことを、心から応援し支えてくれました。
チームとしては、14チーム中真ん中の成績でシーズンを終えました。
アメリカで過ごした、この経験と思い出は、大切にしたいと思います。
これで、連載は おわり とさせていただきます。
ありがとうございました。
<前回までのあらすじ>
11勝2敗で、前半戦を終えたボニーと私。後半戦を10勝3敗以上、つまり、通算21勝5敗以上で終えれば、私たちはAプレーヤーになれます。しかし私は足を負傷し、3月に帰国も決まってしまいました。
1月に入り、後半戦13試合が始まりました。足を痛めた私は、病院にいって飲み薬をもらい、リーグが休みの間(クリスマス、ニューイヤー休暇)はテニスができていませんでした。
案の定、後半戦1試合目は私の動きが悪くて、前半戦で勝った相手にもかかわらず負けてしまいました。その後は、なんとか持ち直し、連勝していきました。
しかし、また2月の始めの試合中に、同じふくらはぎを肉離れしてしまいました。その試合も、なんとかボニーに走り回ってもらって勝つことができました。ボニーは無理をして欲しくないと心配して言ってくれましたが、私はなんとか帰国するまでにAに2人でいきたいと思っていました。そのころはもう、火曜日のリーグで試合を何とか続けようと必死でした。ボニーも私に負担をかけないようにいつも以上に積極的に動き決めてくれました。彼女の方がしんどかったと思います。
足を痛めた翌週は、私は、さすがに試合には出れず、ボニーはサブとLine2(No2)でプレーしました。この時のボニーの勝ち数はLine2なのでカウントされません。
その次の試合から、私は復帰しました。(お医者様でもらった薬が、結構効きました。)しかし、3月初めにまた1回負けてしまいました。相手は負けても納得できるリーグ屈指の強いペアでした。
3月始めの段階で負け数4、カウントされない勝ち数1でした。通算5回より多く負けるとAへの夢は消えてしまいますから、これ以上負けることができませんでした。残り全試合勝たなければなりません。
私たち家族が日本に帰国する日が3月26日で、ボニーと私が最後にプレーするリーグの最後の日が3月21日でした。
足を冷やさないようにロングパンツをはきサポーターをして、試合前に飲み薬を飲み、試合に毎週出続けました。
おかしかったのは、なぜか、他のチームメイトもみんな、ロンパンでプレーしていました。きっと、みんな負傷することを恐れたのだと思います。
そして、なんとか3月21日に”ギリギリ”21回目の勝利をあげることができました。
晴れて、ボニーと私はAプレーヤーになる資格を得ました。Aリーグは、個人戦で毎回別の人とプレーをし個人の勝率でランキングがついていきます。現在、ボニーはAで中々の成績で頑張っています。
私は、帰国しましたが、あれほど、必死にテニスをやったことはありませんでした。燃え尽きたという感じでした。
チームのみんなも私たちがAに行くことを、心から応援し支えてくれました。
チームとしては、14チーム中真ん中の成績でシーズンを終えました。
アメリカで過ごした、この経験と思い出は、大切にしたいと思います。
これで、連載は おわり とさせていただきます。
ありがとうございました。